東京高等裁判所 昭和31年(う)887号 判決 1956年11月20日
控訴人 原審弁護人
被告人 蔡万得 外二名
弁護人 小野清一郎 外二名
検察官 川口光太郎
主文
原判決中被人告施龍一に対する部分を破棄する。
被告人施龍一を懲役一年六月及び罰金百五十万円に処する。
右罰金を完納することができないときは金五千円を一日に換算した期間同被告人を労役場に留置する。
但し被告人施龍一に対し本裁判確定の日から三年間右懲役刑の執行を猶予する。
原審における訴訟費用中証人白須治正、同大沢光孝に支給した分は相被告人蔡万得及び同ウイツトール・レバスキーと被告人施龍一との連帯負担とする。
被告人蔡万得及び同ウイツトール・レバスキーの本件各控訴はいずれもこれを棄却する。
当審における通訳人鈴木与治郎に支給した訴訟費用は全部被告人ウイツトール・レバスキーの負担とする。
理由
本件各控訴の趣意は弁護人小野清一郎、同宮沢邦夫連名提出の控訴趣意書及び弁護人戸田謙提出の控訴趣意書記載のとおりであるからここにこれを引用する。これに対する当裁判所の判断は左のとおりである。
右弁護人小野清一郎、同宮沢邦夫の控訴の趣意第一点及び第二点について。
論旨は、被告人蔡万得及び同施龍一に対する原判示第一の事実につき原審の事実誤認を主張し、ひいて法令適用の誤りを主張するものであるが、原判決挙示の証拠を綜合すれば、原判決認定の事実は優にこれを認めることができ、記録を精査検討しても原判決に事実誤認の疑は存しない。したがつて、原判決には擬律の点についても所論のごとき法令適用の誤りは存しない。弁護人は、右被告人らは原判示陳兆民から外国にある財産たる二万三千弗の譲渡を受けた事実は何ら存しないと主張するけれども、原判決挙示の証拠、殊に被告人蔡万得及び同施龍一の検察官に対する各供述調書並びに陳兆民の検察官に対する供述調書によれば、いずれも本邦にある居住者である被告人蔡万得及び同施龍一は共謀の上中国台北市阮陵街三十五号大万産業股分有限公司に対する二万三千弗の債務を弁済するため外国通貨である弗を入手してこれを送金しようと企てかねて知合の陳兆民がアメリカ合衆国紐育市所在の銀行に弗預金口座を所有していることを知り、同人に対しアメリカ合衆国における弗預金譲渡の代償として一弗四百十五円又は四百二十円を支払うべきことを約しかつその履行の方法として前記大万産業股分有限公司台湾本社のため右紐育市所在の中国銀行紐育支店の台湾銀行名義の当座預金口座に振り込むべきことを約さしめ、原判示のごとくこれを実行せしめて本邦にある居住者たる陳兆民に対し二万三千弗の譲渡を受けた代償として一弗四百十五円又は四百二十円の割合による合計金九百六十四万円の支払をしたことは明らかなところであり、この事実は外国為替及び外国貿易管理法第二十八条に違反し同法第七十条第九号に該当するものであり、かつ同時に同法第七条第六項、昭和二十四年大蔵省告示第九百七十号に該当することは疑を入れないところといわなければならない。若し、弁護人所論のごとく、陳兆民が始めから自己の弗預金を大万産業股分有限公司台湾本社に帰属せしめることを依頼され、これを実行したのに対し、被告人らが非居住者たる右台湾本社のためこれが代償を支払つたものとすれば、右は外国為替及び外国貿易管理法第二十七条第一項第三号に違反し同法第七十条第八号に該当するとともに、同時に同法第七条第六項に触れることとなるのであるが、本件は前認定のとおり、被告人らが法定の除外事由なくして自己の債務弁済のため外国にある財産を取得し、これが代償として本邦において居住者に対し支払をしたものであることが明らかであるから、所論は到底採用し難い。なお、弁護人は、本件被告人らの所為が同法第二十八条に触れ、同法第七十条により処罰さるべきものとするならば、その上さらに同法第七条第六項を適用し観念的競合として処断することは誤りであつて、右は法条競合の場合に該当し、その一方の違反は他の違反を排除するものといわなければならないと主張するけれども、同法第二十八条と同法第七条第六項とは、所論のごとく、国際収支の均衡を目的とする点でその性質を同じくすることはいなみえないとしても、後者の場合は特に通貨の安定ということにより重点を置いた規定であり、したがつておのずからその取締の範囲を異にしているものというべく、また両者は常に必ずしも同時に違反される性質のものではないのであるから、そのいずれか一方が成立すれば他方は成立せず、若しくは一方は常に他方を吸収する関係に立ついわゆる法条競合の場合に該当するものとは到底認め難いところである。なお、弁護人は、本件取引は大万産業股分有限公司の社長である蔡万春が被告人らにこれを要求し、被告人らは大万産業東京弁事処の使用人としてその意思に従つて行動したものであり、したがつて(一)蔡万春がその実行正犯であり、被告人らはその実行を幇助したものであるか、又は(二)蔡万春と被告人らと共謀共同正犯である、なお被告人蔡万得については果して共謀の事実があつたかどうか証拠上明らかでない、と主張するけれども、前記認定のごとく、被告人蔡万得及び同施龍一が共謀の上本件犯行に出たものであることは明らかなところであつて、記録を精査検討しても原判決に事実誤認の疑は存しない。なお、弁護人は被告人蔡万得の司法警察員及び検察官に対する供述調書中の供述は陳兆民が釈放された後陳の示唆によつて供述したものであるとして、その共謀の点に関する自白の任意性を争つているけれども、右主張に添うがごとき被告人の原審公判廷における供述は被告人施龍一及び陳兆民の検察官に対する各供述調書に照したやすく措信し難いところであり、他に右主張の事実を認むべき資料は存しないから、この点に関する所論もまた採用し難い。竟畢所論は理由がない。
(その他の判決理由は省略する。)
(裁判長判事 花輪三次郎 判事 山本長次 判事 下関忠義)
弁護人小野清一郎、同宮沢邦夫の控訴趣意
第一点原判決は被告人等に対し判示第一の事実を認定し、代償支払の点について外国為替及び外国貿易管理法二八条・七〇条本文及び但書九号・刑法六〇条を適用すると同時に、基準外国為替相場の違反について同法七条六項・七〇条本文及び但書二号・昭和二四年大蔵省告示九七〇号・刑法六〇条を適用し、刑法五四条一項前段・一〇条により観念的競合として処断している。しかし、これは事実を誤認し、法令の適用を誤つたものであつて、代償支払の点のみについて有罪とすべきものと信ずる。
外国為替及び外国貿易管理法二八条は「この法律の他の規定又は政令で定める場合を除いては、何人も、外国にある者に対する支払若しくは利益の提供又は外国にある財産の取得の代償として又はこれらに関連して、本邦において、居住者に対して又は居住者のために支払をしてはならない。」と規定する。然るに原判示第一に認定された事実は、「被告人蔡万得、同施龍一は孰れも本邦にある居住者なるところ共謀の上法定の除外事由がないのに昭和二九年五月下旬頃前後三回に亘り東京都中央区築地三一四六番地華僑ビル内大万産業股分有限公司東京弁事処等に於て本邦にある居住者陳兆民に対し同人が当時所有して居たアメリカ合衆国紐育所在アーヴイングトラストバンクの当座預金口座より米国通貨二万三千弗を中国台北市阮陵街三十五号大万産業股分有限公司本社の為めアメリカ合衆国紐育市所在中国銀行紐育支店の台湾銀行名義の当座預金口座に振込ましめ以て外国にある財産たる二万三千弗の譲渡を受けた代償として右二万三千弗中二千弗に付いては基準外国為替相場一弗に付三百六十円を超過する約一弗四百十五円の割合により中二万一千弗に付いては同じく基準外国為替相場一弗三百六十円を超過する一弗約四百二十円の割合により合計金九百六十四万円(四百九十万円百八十四万八千円二百八十一万二千円)を支払い」というのであつて、明らかに管理法二八条の規定中「外国にある財産の取得の代償として……本邦において、居住者に対して……支払いをしてはならない」という部分に違反するものとして事実を認定し、同法七〇条本文及び但書九号を適用処断したものである。
しかし、被告人等は陳兆民から「外国にある財産たる二万三千弗の譲渡を受けた」という事実は、引用された証拠によるも到底これを認めることはできないものであり、それ故法二八条にいわゆる「外国にある財産の取得」に該らないのである。引用された証拠、ことに陳兆民の司法警察官に対する供述調書、被告人蔡万得の司法警察官に対する供述調書および同人の検察官に対する供述調書、被告人施龍一の司法警察官に対する供述調書および同人の検察官に対する供述調書によれば、被告人等は陳兆民をして台北市にある大万産業本社のために、紐育市所在アーヴイングトラストバンクにおける陳兆民名義の預金口座から中国銀行紐育支店の台湾銀行名義預金口座に二万三千弗を振込ましめたことは事実であるが、それは被告人等がその金額を「取得した」ものではない。譲渡を受けたのは台北市にある大万産業本社であつて、その東京弁事処又はその従業者たる被告人等ではない。(外国為替管理の関係において、大万産業股分有限公司本社は「非居住者」であるが、その東京弁事処はそれとは別個の「居住者」である。法六条五号。)陳兆民の指図による振替によつて台北市にある大万産業本社は外国にある二万三千弗の「財産を取得した」といえるであろうが、大万産業公司東京弁事処がそれを取得したとはいえない。そうである限り、東京弁事処の従業者たる被告人等は二万三千弗の財産を「取得した」代償として居住者たる陳兆民に対し合計金九百六十四万円を支払つたものということはできない。陳兆民に対して邦貨を支払つたことは事実であるが、それは「外国にある財産の取得の代償として支払つた」とはいえないのである。
原審において弁護人はこの点を争つたのであるが、原判決は次の如く判示して弁護人の主張を斥けた。「被告人施龍一、同蔡万得の弁護人は仮りに被告人等が陳兆民をして紐育市所在中国銀行紐育支店台湾銀行口座に自己の弗預金を振込ましめたとするも外国に在る財産譲渡と為らずと主張するも前記証拠によれば陳兆民は外国にある自己の権利に帰属した弗預金を被告人等に帰属せしめる方法として右台湾銀行口座に振込んだもので之により陳兆民は自己の弗預金を失い大万産業股分有限公司台湾本社に其の権利を帰属せしめ右被告人等の大万産業股分有限公司台湾本社に対する債務を弁済したのであり陳兆民が弗預金を譲渡したこと明らかであるから右弁護人の主張は理由がない。」しかし、これは陳兆民の譲渡と被告人の取得とを同一視している点で全く判断を誤つている。陳兆民は自己の弗預金を「被告人等に帰属せしめる方法として」右台湾銀行口座に振込んだというのは全然事実に反しているのであつて、陳兆民は始めから大万産業台湾本社に帰属せしめることを依頼され、またそれを実行したのである。被告人等は、個人としては勿論、大万産業東京弁事処の従業者として同弁事処のためにも未だかつて弗預金を「取得した」ことなく、又取得する意思を有しなかつたのである。
およそ外国為替管理の関係において問題となるのは本邦と外国との間における国際収支の均衡ということであり、その目的上国際収支が本邦の不利益に変更される虞のある行為を制限するものである。外国為替及び外国貿易管理法一条に「この法律は、外国貿易の正常な発展を図り、国際収支の均衡の安定及び外国資金の最も有効な利用を確保するために必要な外国為替、外国貿易及びその他の対外取引の管理を行い、もつて国民経済の復興と発展とに寄与することを目的とする。」とある。すなわちその窮極の目的は国民経済の復興・発展にあるのであり、そのために必要な外国為替および外国貿易の管理を行うものであるが、その管理の直接の目的は(一)外国貿易の正常な発展、(二)国際収支の均衡の安定、(三)外貨資金の最も有効な利用という三つである。従つて同法の規定を適用するにあたつては、常にこれら三つの目的――それらは相互に連関したものであるが、-を念頭においてその意味を解釈しなければならない。なかんずく同法二八条は専ら国際収支の均衡ということを目的とするものであり、その趣旨に従つて解釈されなければならない。いま、被告人等が陳兆民に依頼してそのアメリカにおける銀行預金口座から外国にある外国法人たる大万産業台湾本社のために弗預金を振込ましめ、その代償として円貨の支払をしたとしても、それは本邦の国際収支には何等の影響を及ぼすものではない。若し被告人等が、個人として又は大万産業東京弁事処の従業者として同弁事処のために弗預金を取得したのであつたら、それに対する代償の支払は本邦にとつて国際収支における支払勘定を増加するであろう。けれども、大万産業台湾本社がこれを取得する場合には、本邦の国際収支は直接関係がない。アメリカと台湾という第三国間における財産の移動である。たとえその財産移転の指図をした者およびさせた者が本邦内にある居住者であるとしても、それは必然的に本邦の支払勘定となるべきものではない。管理法二八条はそうした行為までも禁止するものとは解されない。ただ、本件の場合、陳兆民はアメリカにおいてすでに自己の有する弗預金七、〇〇〇弗のほか他の者の有する一万六千弗を自己の銀行預金口座に振込ませた後、それを含む自己の預金から二万三千弗を大万産業台湾本社のために中国銀行紐育支店に振込んだようである。しかしその一万六千弗も、本邦から送金されたものではなく、アメリカにあるウイツトール・レバスキーの銀行預金から同人の指図によつて――神父ドナツトの預金口座を通じて――陳兆民の銀行預金口座に振替えられたものであることは、ウイツトール・レバスキーの供述によつて明らかである(同人の全供述調書および公判調書中同人の供述記載)。本邦においてこれらの指図をしたことは、非合法であるかも知れないが、それは別個の問題である。それは被告人等に対する公訴事実ではない。
要するに、アメリカにある二万三千弗の財産が台湾にある大万産業本社によつて取得され、それに対する代償として本邦において居住者に対し九百六十四万円が支払われた、という事実がある。しかしかような事実は外国為替及び外国貿易管理法二八条の禁止に触れない。同法七条六項に触れるだけである。後者のみを適用処断すべきである。また若し、かりに本件被告人等の行為が管理法二八条に触れ、同法七〇条により処罰さるべきものとするならば、その上さらに同法七条六項を適用し観念的競合として処断することは誤である。同法二八条と同法七条六項とは国際収支の均衡を目的とする点でその性質を同じくするのみならず、実際上同時に違反される性質のものである。しかもその処罰はいずれも同法七〇条によるのである。それであるから、形式的に両法条に触れる場合であつても、法条競合の理により、その一方の違反は他方の違反を排除するものといわなければならない。原判決は法令の解釈を誤り、またその適用を誤つているのであつて、いずれにしても破棄を免れないものと信ずる。
第二点原判決には重大な事実誤認がある。原判決は判示第一において被告人蔡万得、同施龍一は共謀の上陳兆民がアメリカにおいて所有する二万三千弗の譲渡を受け、その代償として本邦において陳兆民に対し基準外国為替相場を超過する割合で合計金九百六十四万円を支払つたと認定している。しかし、この取引は大万産業股分有限公司の社長である蔡万春が被告人等にこれを要求し、被告人等は大万産業東京弁事処の使用人としてその意思に従つて行動したものである。従つて(一)蔡万春がその実行正犯であり、被告人等はその実行を幇助したものであるか、又は(二)蔡万春と被告人等と三名が共謀共同正犯である。なお(三)被告人蔡万得については、果して共謀の事実があつたかどうか、証拠上明らかでない。然るに被告人蔡万得、同施龍一の二人だけの共謀共同正犯とした原判決はこの事実を誤認し、被告人等に不当な刑事責任を負わせたものである。
本件取引の行われたのは、大万産業本社がその東京弁事処に対して有していた債権を回収しようとして蔡万春がその請求をしたことによるものである。最初蔡万春は台湾から書面で請求したが、要領を得ないので蔡万春みずから日本に来て、その回収を実行したのである。(大万産業の本社と東京弁事処とは同一法人の二つの事務所にすぎないから実はその間に債権債務の関係はないのであるが、外国為替及び外国貿易管理の関係において一は非居住者、一は居住者として二個の人格として取り扱われるので「管理法六条五号」、その限りにおいて両者の間に債権関係が認められるわけである。)
この債権関係について原判決は罪となるべき事実の判示においては触れていないが、情状の部において「被告人施龍一は個人としては其の相当人格者なるものの如きも大万産業股分有限公司の東京弁事処の責任者としてバーター制による輸出入の許可を受け乍ら輸入のみを為し輸出を為さず本社よりの要求による事とは云え結局多額の外貨を大万産業股分有限公司台湾本社に帰属するに至らしめたもので其の情重きを以て実刑を以て臨むを相当とする。」と説示している。この説示のうち「輸出を為さず」という事実は証拠にもとずかない独断でありしかも原審の審理過程において全然問題とならなかつたことを突如として判決において認定したもので、これは全く誣罔である。別に第三点において論ずるように、大万産業東京弁事処はパインアツプルの輸入に対して後にその見返り品として朝鮮人蔘を輸出しているのである。ただ本件行為の当時未だその輸出の手筈が整わず他方契約先である香港のセウン・スター・コーポレーシヨンに対し大万産業台湾本社が資金を立替えた関係上、決算期に際し台湾本社から至急決済を求めてきた。そしてついに社長蔡万春が自ら乗り出してその獲得を試みたものである。東京弁事処に勤務する被告人等はただ蔡万春の指揮に従つたものにすぎない。当の蔡万春が現在本邦にいないので、証人として喚問することができないのは遺憾であるが、記録の上においてその事情を窺知することができるのである。一、特に社長蔡万春が昭和二九年四月一九日から日本に出張し、同年六月一六日まで滞在していたこと、及びそれが本社においてセウン・スターに対し立替え支払をした資金を急遽回収のためであつたことは、「外国人の出入国事実について」と題する書面(記録四二四丁)、昭和二九年七月五日附、同月一四日附被告人施龍一の検察官に対する供述調書、昭和二九年七月七日附被告人蔡万得の司法警察員に対する供述調書等によつて明らかである。二、蔡万春が被告人施龍一に二万三千弗の送金を請求して本件の行為に出でしめたことは一点の疑を容れない(被告人施龍一の昭和三〇年三月二四日第九回公判調書に於ける供述記載、その他上に引用した供述調書)。しかも、蔡万春の請求は二万三千弗というドル貨であり、日本に外国為替の統制があつて、普通の方法では送金のできないことは蔡万春の百も承知しているところである。それにも拘わらず蔡万春は被告人施に対し再三円を弗に換えることを請求した(昭和三〇年一二月六日第一七回公判調書)。国際貿易に経験を積んでいる蔡万春の発意によるものであることは明らかである。ただ被告人等、ことに被告人施龍一としては、蔡万春の被傭者たる関係上これを明言し得ない地位におかれていたのである。この情況は被告人施龍一、同蔡万得の各調書及び公判における各供述を熟読すれば、推定できる。(もとより本件において蔡万春は被告人ではないのであるから、その犯罪事実を認定するのに厳格な証明を要しないことは当然である)。三、被告人蔡万得が本件犯罪――仮りにそれが成立するとして、――の共謀者であつたことについては十分の証拠がない。なるほど同人は司法警察員および検事に対して自白したことになつている。しかし、それは陳兆民が釈放された後陳の示唆によつて供述したものである。原審公判において裁判長が昭和二九年七月一六日附被告人蔡万得の検察官に対する供述調書を読聞かせ、「二万三千弗の小切手を同封しませんでしたか」と問うたのに対し被告人蔡万得は「知りません、それは陳が釈放されてから陳に聞いた話なのです」いるからまた弁護人の「陳からどんな話を聞きましたか」という問に対し「自分の供述中に君の名前を云つてと答え、これにあわせてくれ、そうすれば施さんも出られるからと云つておりました」と答えている(昭和三〇年一二月六日第一七回公判調書供述記載)。この供述は信用すべきものである。陳兆民は、当時アメリカ行きが切迫しており(妻子はすでにアメリカに行つていた)、検察官はそれに同情して陳兆民を釈放すると同時に、被告人施龍一を検挙したのである。この事情は証人白須治正、同大沢光孝の供述によつて明らかである(各公判調書)。そして被告人蔡万得は、陳兆民および施龍一に対する配慮から陳の供述を利用する司法警察員の誘導に応じて自白したのである。被告人施龍一は、裁判長が起訴状を読み聞かせたのに対して「蔡万得と共謀の点ですが、私は、同人が薄々事情を知つていたかも知れませんが、正面切つて話をしたことがありません」と述べ、さらに裁判長の「蔡万得はその件につき陳兆民に頼んだことがありませんか」という問に対して「頼んだことがありません。蔡は当時陳と親しくしていなかつたのです」とはつきり答えている(昭和三〇年三月二四日第九回公判調書供述記載)。
(その他の控訴趣意は省略する。)